ニュースレター No.10 (2011年02月20日発行) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
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分科会 6 「尊厳の確立」
プレゼンター:
  • アディ・ヨサップ(IDEAインドネシア)
  • 李 添培(楽生保留自救会会長、IDEA台湾)
  • 森元美代治(IDEAジャパン理事長)
  • 蘭 由岐子(神戸市看護大学准教授)
  • H.Dカン(ディレクター、Seong Jwa Won)
分科会では英語で発表しなければならなかったので、プレゼンテーションをキャサリン・田中さん、グレゴリー・ヴァンダービルトさん、ローリー・素川さん、梶田恵理子さんに翻訳していただきました。以下は、4人のプレゼンテーションの要約です。

われわれの人生を踏みつけないでください −尊厳回復の願いと私のたたかい−
理事長 森元 美代治
photo by Sigurd Sandmo (IDEA ノルウェー)

私は1938年生まれで72歳です。しかし、誰も私を72歳とは見ません。だいたい10歳ぐらい若く見られます。私は子供や若い学生たちが大好きです。私は彼らとよく交流して彼らから新しいエネルギーをもらいます。だから私の気持ちはいつも青春なのです。

さて、私は10歳の頃から自分のからだに異常を感じていました。手や足の大部分に痛みを感じないのです。中学1年生のとき、深夜に寝ていて、足にできた傷をネズミにかじられてもわからないのです。私の両親が不思議に思って村の病院で診てもらいましたが、原因がわかりません。病院通いばかりしているうちに、私は学校や村の子供たちにいじめられ、だんだん孤独な少年になっていきました。やがてハンセン病と分かり、1953年、14歳の時、療養所に隔離されました。療養所は想像以上に地獄でした。後遺症の重い人ばかりで、貧しく、刑務所のような高い塀に囲まれ、外出は一切許されませんでした。

1955年、長島愛生園に新設された高校の入学試験に合格し、第一期生として入学しました。われわれ生徒はみなハンセン病の患者ゆえ、健常者の先生たちは病気を恐れて人間的なスキンシップをほとんどしませんでした。明らかに差別的な教育環境の学校でした。
新薬のプロミンで10年かかってハンセン病を治し、1962年、東京の大学の入学試験に合格しましたが、主治医は「らい予防法」という法律があるから、と進学を許可しませんでした。私は24歳でしたから、こんなドクターたちを相手にしている時間はないと思い、療養所を脱走して社会復帰しました。大学を卒業して東京の銀行に就職し、4年間、猛烈社員として働きました。
しかし、一見、順調に見えた私の人生に神様の新しい試練が待っていました。ハンセン病が再発したのです。私は新薬での通院治療を主治医に申し入れましたが、療養所に入らなければだめだというのです。私は、仕方なく、すべてを捨てて、1970年に再び東京の療養所に入らざるをえませんでした。そこで1974年に、療養中のインドネシア人留学生,Makadada・Mieke(美恵子)と結婚しました。しかし、残念ながら子供はできませんでした。
新薬を次々に飲んでいるうちに激しい痛みと反応に苦しみ、とうとう7年後に右目を失明し、手足も不自由になってしまいました。もはや、社会復帰する希望も情熱も失い、家族、大学や職場の友人たちとも絶縁し、誰にも知られないように療養所で一生を終えようと決心しました。

1981年から「らい予防法」廃止運動に没頭しました。1996年にようやく法廃止に成功し、私は日本社会のハンセン病に対する偏見・差別を払拭するために『証言・日本人の過ち』という闘病記録を出版しました。この本がマス・メディアに大きく取り上げられ,「徹子の部屋」にも夫婦で出演しました。私がカミングアウトした結果、大学の友人や職場の同僚たちとの交流も復活し、新しい人生を歩み始めました。
ところが、このことに激しい抵抗を示したのは私のきょうだいと、親戚の一部の人々でした。国賠裁判の原告になった時や、勝訴後に国会議員の選挙に出馬したときなどは、「青酸カリを飲んで死んでくれ。これ以上家族を苦しめるな。お前の活動は甥や姪、孫やその子供たちの結婚や就職に妨げになる」と言うのです。私は彼らの声に耳を貸しませんでした。なぜなら、彼らの考えは間違っているし、彼らもこの痛みや犠牲を共に乗り越えないと、日本のハンセン病問題はいっこうに前進しないと思ったからです。

われわれは、発病するや家郷を追われ、自殺するか、秘かに園内に身を隠し、死んだら、療養所内の納骨堂に園名(偽名)のまま無縁仏として葬られる宿命を負わされていました。そのことをIDEAジャパンのニュースレターに書きました。すると、それを読んだ母校の中学生の琴線に触れたのでしょうか。全員から思いあふれる激励の手紙をいただきました。「自分たちも応援するから、森元家のお墓に入れてもらえるようにがんばってください」と。
昨年8月、故郷に帰ったとき、森元家の跡取りである甥の長男に話してみました。すると若い彼は、「おじさんが希望するように、森元家の墓に入れてあげますよ」と約束してくれたのです。不可解な人生に予期せぬ出来事は付きものですが、何をか言わん、後輩たちの心強い後押しが天に通じたことを素直によろこびたいと思いました。

1998年、50〜70年も療養所に隔離され、家族と切り離され、人生を台無しにされたと、入所者たちが立ち上がり、日本政府を相手にらい予防法違憲国家賠償請求訴訟を提訴しました。私も原告団事務局次長として頑張りました。2001年に原告全面勝訴の判決を得て、政府に謝罪声明と、療養者の老後の生活・医療・福祉のすべての面において十分な保障を約束させたのです。マス・メディアは連日この国賠訴訟について報道してくれたので、ハンセン病についてまったく無知で、また誤解していた多くの日本人がわれわれを理解し、受け入れてくれるようになりました。
2002年、私は療養所を再び退所し、東京のアパートで自立生活を始めました。今度こそ、何も隠さずに、自分の力で自由に生きてみたいと思ったからです。今では地域社会の多くの人々が私のことを理解し、私の活動を応援してくれています。

2004年、私はNPO法人のIDEAジャパンを設立し、理事長として、約250人の会員や支援者とともに活動を続けています。会費や寺院や個人からの寄付金等を活用し、インド、ネパール、フィリピン、タイ、中国のIDEAを通じて、ハンセン病の子供たちの奨学金やコロニーの生活改善のための資金を助成しています。これからもIDEAジャパンは、ハンセン病の後遺症と貧困に苦しんでいる人たちの力になりたいと願っています。
その他、IDEAジャパンは、日本の「らい予防法」によって被害を受けた台湾の楽生院や韓国の小鹿島(ソロクト)の訴訟も支援し、日本政府に対し、われわれ日本人と同じように賠償するように積極的に働きかけました。このように私は一貫してハンセン病患者・快復者の人権回復を訴え、国際活動を続けながら、日本全国を飛びまわり、自らの隔離体験を伝えています。

最後に、ハンセン病についてまったく無知で差別をしたがっている世界中の人々にお願いしたい。われわれの人生を踏みつけないでください。そんなことをすれば、あなた方の人生は取るに足りない小さなものにされるでしょう。
われわれハンセン病を患った者は、神仏からも見放された最も醜く、最も穢れた者として蔑まれ、さまざまな社会的迫害や差別の中で激しい人生を生き抜いてきました。だからこそ、われわれはいかなる艱難をも克服できる忍耐力と勇気を持っています。
われわれはあなた方にとって危険な存在ではなく、あなた方と同じように、一人の人間として尊厳と誇りをもち、幸福を求める権利を有しています。どうかわれわれを受け入れて、すべての国のすべての人々が平和で心豊かに生きられるようにそれぞれの立場で努力しようではありませんか。
どうもありがとうございました。

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