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私の活動の原点(1) 理事長 森元 美代治 ◆新良田教室が残したもの 本年5月8,9の両日、第6回ハンセン病市民学会総会・交流集会in 瀬戸内が岡山市、長島愛生園、邑久光明園、大島青松園を会場に開催され、全国から1300人が参加し、過去最大の盛会となりました。 2日目、長島愛生園で行なわれた分科会A、「新良田教室が残したもの」に私もパネリストとして参加させていただきました。「新良田教室」がはじめて公の場で論じられるとあって、市民学会教育部会の皆さんや多くの方々の関心が高く、90人のキャパシティである同教室の講堂に参加申し込みが殺到したため150人で締め切ったと、コーディネーターを務められた広島県福山市にある盈進中学高等学校の延 和聰先生(ハンセン病市民学会運営委員、教育部会世話人、ハンセン病の差別・偏見をなくす市民ネットワークHIROSHIMA事務局)が驚いておられました パネリストは私(1期生)、藤崎陸安さん(5期生)、山口シメ子さん(5期生)、宮良正吉さん(7期生)、横田廣太郎先生(元数学教員)、三宅洋介先生(元美術教員)の6人で、それぞれ15分位ずつ新良田教室の思い出を語った後、延先生が設定されたパネラーとの会話形式、そして第三部として参加者との質疑応答が行なわれ、3時間にも及ぶ熱心な協議がなされました。 さて、新良田教室は1953年に日本政府の「らい予防法」制定に反対し、全患協(全国ハンセン病患者協議会=現在の全療協)が一丸となって闘った熾烈な運動の成果として1955年に新設された入所者のための高等学校です。長島愛生園の新良田地区に建てられたことからその名が付けられました。生徒たちは皆、患者なので午前中1、2時間治療が必要なため、変則的な昼間の定時制普通課程として岡山県立邑久高等学校新良田教室は開校されました。 当時 沖縄2園を除く11の国立療養所と3つの私立療養所には約600名の学齢児がいて、彼ら、彼女らにとって高校の新設は社会復帰への大きな足がかりとなる希望への光明となったのです。私にとって非常にラッキーだったことは、1952年、中学3年のときに発症し、国立奄美和光園に入所した翌年、奄美大島は日本に復帰しました。そのために私にも受験資格が与えられ、諦めていた高校進学への夢が膨らんだのです。一クラス30名に対し第一次応募は200名を超えていたため、高校入試にしては厳しい狭き門でした。負けず嫌いの私は真夜中の2時ごろまで問題集と時計との睨みっこで猛勉強に励んだ結果、第一期生として入学が許されたのです。 星塚敬愛園(鹿児島県)の4名の合格者と合流し、岡山へと向かったのですが、われわれを待っていたのは鈍行の、夜しか走らない貨物列車〈後輩たちは皮肉って“お召し列車”と呼んでいる〉でした。貨車の入り口のドアには「伝染病患者移送中」と張り紙され、岡山駅に着くと、数名の愛生園職員が白衣にマスク姿というものものしい恰好で、われわれが歩いた跡を噴霧器で消毒しているのです。旅の途中から希望が失望に変わっていくのをどうすることもできませんでした。 小川正子女医の『小島の春』の舞台となった回春病棟に1週間隔離され、DDTで真っ白になったお風呂に入れられ、持ち物はすべて消毒、時計や万年筆がだめになる程でした。さらにわれわれを失望させたのは学校の教師たちでした。終生隔離撲滅政策の主唱者、光田健輔医師が現役の園長として君臨し、「隔離と消毒」を義務付ける「光田イズム」が徹底された愛生園のこと。近隣の町や村から定期船で通勤してくる10数名の高校教師たちは授業中も白衣と消毒が義務付けられ、年配のひどい教師などは厳重に手袋をはめ、チョークや黒板消しさえ触ろうとせず、その都度、前方に座っている生徒に消させていました。われわれ生徒は教員室への出入りを禁じられ、ブザーの回数で教師を呼び出して用事をすませていました。夏休みや春休みには、実家から偽りの危篤電 報を打ってもらって帰郷しました。分館の担当職員に「高校生は休みになると電報が多いね」とからかわれたのを昨日のことのように覚えています。 もっとも惨めだったことは、4年生になって修学旅行をお願いしたところ断られ、その代わりにと兵庫県相生市の石川島播磨造船所に愛生園の船でつれて行かれました。小一時間はかかったでしょうか。船の上から進水式などを見ただけで、上陸は一歩も認められず、そのまま愛生園に帰ってきたのです。「これが修学旅行かよ。行くんじゃなかった。」と皆、怒り心頭でした。われわれ一、二期生は建学の精神に燃え、良き伝統を築かんと、あの手この手を尽くして学校側や施設当局、入園者自治会に要望していましたが、何一つ実現することはできませんでした。 高校時代からプロレタリア文学をめざし、作家になった故冬敏之氏は卒業文集に寄せた「新良田教室論」の中で次のように書いています。「我々は生徒である前に、H氏病患者であるという意識を植えつけられている。それは、若い魂の余りにも重い負担である。しかも、我々は教師に対する時、先生と生徒という以前に、健康者と患者ということを深く意識する。〈中略〉、先生の情熱を阻む何かが、この島の中にも、生徒自身の中にも存在する。生徒にとって異邦人である先生たち-。白ずくめの予防着、予防ズボン,予防帽。そこには厚い白衣の壁が厳然と存在する。行き帰りに校門で逢う背広姿の先生たちに、我々は自分の知らない、どこか遠い処の人間を考える。そして、白衣の先生たちに、我々は始めて近付くことができる。が、その距離は限られている」と。 冬氏もハンセン病国賠訴訟の原告の一人とし尽力され、2002年、プロレタリア文学の最高賞といわれる「多喜二・百合子賞」を授賞して間もなく他界されたのが残念でなりません。 1987年に閉校されるまでの32年間に、新良田教室で学んだ若者は397名。内、卒業生は307名。大学進学者24名、専門学校等進学者49名、社会復帰者225名。中には有名国立大学医学部を出てハンセン病の専門医になった者や、レントゲン技師6名、看護師8名、他に教師、検事、デザイナー、電気技師、造船業等、社会のあらゆる分野の第一線で活躍しています。そして、ハンセン病国賠訴訟でも、多くの同窓生がリーダーシップを発揮し、結束して闘ったことはいうまでもありません。 閉校になる時、たまたま同窓会の会長だった私は卒業生に寄付をつのり、閉校記念誌『新良田』の発行と記念碑「希望」を建立することができました。碑文は私の拙文ですが、その中に「新良田 それはここに学んだわれわれの青春と栄光のシンボルである」と記されています。しかし、私のように順調に進学できた者はいいとして、一度二度、入学試験に失敗した者は悔しかっただろうし、思い出したくもないことかも知れません。WHO(国際保健機関)によるハンセン病の世界的潮流は開放医療でしたから、当時、絶対隔離政策の下に療養所内に高等学校をつくるということは、世界の“常識”からすれば言語道断だったのです。一般社会の受験生は、この学校がだめなら別の学校と選択肢も与えられていましたが、療養所の子供たちにとっては新良田教室一つしかなく、憲法で保障する「教育を受ける機会均等の権利」も奪われていたのです。新良田教室は日本政府が犯したハンセン病政策の負の遺産の一つであると言わなければなりません。 |
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