ニュースレター No.15 (2013年02月10日発行) (1) (2) (3) (4) (5)
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菊池事件「確証なき処刑」について

副理事長 柴田 良平

現在、菊池事件の再審請求のための署名運動が広がっています。菊池事件が起きたのは1951年6月1日で、その時期は第2次「無らい県運動」が進められていました。その年の11月、3人の国立療養所長は国会証言で、はかどらない患者収容を、強権でできるように法律の改定を求めました。この証言の中で、菊池事件の起こった熊本の所長は、「病気を県に報告されたことを逆恨みして一家謀殺を企て、村の衛生主任の家にダイナマイトを投げ込んだのです(議事録から)」と、審理中の菊池事件について、F氏を犯人と決めつける予断発言をしていました。その後、この衛生主任は、何者かによって刃物で惨殺されましたが、この事件もF氏の犯行にされ、死刑判決となったのです。

事件が起きた当時、ハンセン病に対する世間の目は冷たく、患者を出した家へは、親戚も遠ざかり、家族も患者を隠し、ときには家族でないようにふるまうのが当たり前の状態でした。そのため、F氏の無実を示す数々のアリバイがありながら、それを立証する者はいませんでした。彼に早く世の中から消えてもらいたい、身内であることを忘れたい、これが身内の偽らない心情であったと思われます。このことは、ハンセン病の宣告(病気の診断を、私たちはそう呼んだ。死刑宣告と同義語)を受けた者が、経験してきたことです。

そうした心情はF氏もわかっていたはずで、半ばあきらめと自虐的な状態に加え、逮捕されたときに受けた腕の貫通銃創の傷の発熱で、警官から差し出された用紙に捺印し、押し返しました。まさかこの捺印が、強要された自白調書を承認し、死刑となる決定的証拠とされるとは、予想しなかったと思います。

そしてこの菊池事件は、一度も公の裁判所で審理されることはなく、療養所郊外の医療刑務所の仮設の法廷で、半ば非公開で行われました。正規の法廷で裁判を受けられたのは、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟(国賠訴訟)が初めてで、らい予防法は患者が裁判を受ける権利をも阻害していたのです。

処刑はF氏が最高裁に審理手続き中の1962年9月1日午後1時7分、福岡刑務所で執行されました。この報が瀬戸内の長島愛生園に伝えられたのは、その日の夕刻でした。園内放送を聞いて集会所に駆け付けた療友たちは、無力でなすすべを持たずに、涙を流していました。

あの日から40数年の時が流れ、国賠訴訟は勝利し、国の予防政策の非道が明白にされました。しかし、ハンセン病に対する偏見と差別に阻まれ、充分な審理が尽くされず、国の予防政策が深く絡むこのF事件は未解決のままです。一人でも多くの市民の皆様と共に力を合わせ、ぜひ再審請求を実現させ、F氏と家族の名誉回復が叶うよう念願しています。どうぞ署名活動にご協力をお願いいたします。

(注)この記事は、柴田良平さんが執筆し、IDEAレター第2号に掲載したものを加筆・修正しました。ニュースレターでは、えん罪で死刑判決を受けたF氏の名前を出していますが、ご家族の意向もあって、固有名詞を使わないことになりました。現在、事件名は「菊池事件」と改められて、再審請求の運動が進められています。同封した署名用紙にご記入し、ご協力をお願いします。

■訃 報■
昨年末から入院中だった柴田さんを、お正月明けに病室を訪ね、以前、ニュースレターに柴田さんの書かれた菊池事件について、最新号に掲載したい旨、お訊ねすると、「ありがとう! ありがとう!」と繰り返して、笑顔で応えて握手してくださいました。ところがその後、病状が急変し、1月24日、肺炎でお亡くなりになりました。
柴田さんは、プロミンで治癒し、社会復帰したベティー・マーチンの『カービルの奇蹟』を読んで社会復帰を目指し、ご夫婦で実現しました。
2002年にセネカフォールズ(NY州、アメリカ)で開催された国際女性会議にすい子夫人と一緒に初参加し、以来IDEAの集会には積極的に参加されました。「IDEAの仲間と知り合えたことで、自分の後半生が豊かに変わった」と、いつも感謝しておられたことを思い出します。各国IDEAの友人たちから追悼のメッセージが届いています。皆さんとともに、心からご冥福をお祈りいたします。(村上・記) →追悼文 ”良平さん”<寄稿>S・ショウジ


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