ニュースレター No.15 (2013年02月10日発行)
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曽我野一美さんのご逝去を悼む

理事長 森元美代治


▲1月31日、曽我野一美さんの追悼集会が開かれた=東京都千代田区永田町の星陵会館

われわれハンセン病患者運動の中心的存在であった曽我野一美さんが、昨年11月23日、誤嚥性肺炎のため高松市内の病院で急逝されました。享年85でした。25日、大島青松園で執り行われた告別式にはIDEAジャパンの花輪を添えて、常日頃懇意にしていた理事の八重樫夫妻が参列してくれました。2004年8月、IDEAジャパンがNPOとしてスタートするとき、ハンセン病国賠裁判の全国原告団代表を務めた曽我野さんが快く推薦人を引き受けてくださいましたので、曽我野さんの後ろ盾によって、IDEAジャパンはこれまで活動を続けてこられたと感謝しております。

曽我野さんは、海軍飛行予科練習生時代に18歳でハンセン病を発症し、戦後間もなく国立大島青松園に入所を余儀なくされました。青松園は1909年、高松港より船で20分ほどの孤島に設立された終生隔離の象徴的な療養所です。度量の大きさと卓越した頭脳をお持ちの曽我野さんは入所者に請われて自治会役員となり、1953年のらい予防法制定反対闘争のときに副会長に就任。以後18期も会長としての重責を担っております。

1983年から2006年までの間に二度、全患協(全国ハンセン病患者協議会、現在の全療協)会長として『飛ぶ鳥を落とす』勢いで組織の発展に努め、患者運動の見本とまで言われるようになったのです。曽我野会長の下、私は多磨支部長として、また、らい予防法対策委員の一人として働かせていただきました。全患協が1991年に国に対し、予防法改正要請書を提出したのが契機となり、“侍になるか、乞食になるか”という曽我野会長の一言により、極めて消極的だった厚生省や所長連盟(全国ハンセン病療養所所長会)、また反対していた多くの入所者を動かし、1996年、一気にらい予防法廃止に漕ぎつけたのです。

ハンセン病問題を世に問い、広く知られるようになったのは、1998年7月に星塚敬愛園(鹿児島)と菊池恵楓園(熊本)の入所者13名が原告となって、熊本地裁に提訴した「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(ハンセン病裁判)でした。療養所を震撼させるほどの大事件でしたが、入所者の間でこの13名の原告たちは不良患者と揶揄され、当初は負ける裁判として原告も増えませんでした。ところが曽我野さんが青松園の入所者60名を引き連れて原告になった時点から、本格的な裁判闘争に発展していったのです。全国原告団代表に選ばれた曽我野さんは、裁判という厄介な表舞台の真ん中に立ち、その活躍は衆目を集めました。そして、被告国を控訴断念に追い込み、わが国裁判史上、前例のない2年半という短期間に第一審である熊本地裁の判決が確定したのです。同判決は、国の隔離政策により原告たちが「人生被害」を被ったことを厳しく断罪し、国に賠償責任を求めました。


▲DEA国際集会「生きるー尊厳の確立展」で。
1998年、ホノルル

全面勝訴判決を得て、退所者給与金制度や恒久的な療養権の保障等を国に認めさせ、特に療養所の将来構想に関して、医療、看護、介護を充実し、最後の一人まで看取るという約束を文書で交わしています。

しかし、われわれが求めていたこれらの約束事は絵に描いた餅になりつつあり、入所者減に伴う医師不足や看護師、介護員削減は多重障害の療養生活者にとって深刻な問題になっています。人手不足のため誤嚥性肺炎が療養者の死因の一つになっている現状を打開しようと、82歳を超える高齢者集団がハンストも辞さない闘いに挑んでいるさ中、曽我野さんが誤嚥性肺炎で急逝されたことは、誰よりもご本人が無念であったに違いありません。

曽我野さんの死を無駄にしてはならず、全療協、原告団、弁護団、支援者が連帯してこの問題に取り組んでいかなければなりません。曽我野さんの偉大な足跡はハンセン病の歴史に燦然と輝き、われわれの心に永遠に生き続けることでしょう。曽我野さんの御霊の平安をお祈りします。


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