ニュースレター No.12 (2012年02月20日発行) (1) (2) (3) (4) (5)
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故郷との絆 再び
門屋 和子(会員)

3月11日午後、珍しく居間でのんびりとしていたら、急激な大きな揺れに思わずテレビのスイッチに手を! 私の住む長野県坂城町はほとんど地震も無く、これといった大きな災害も無く、静かな田舎町です。 それが、どう〜んという音とともに大きく揺れたのです。画面を見ると、まるで現実では有り得ない悪い夢でも見ているような・・・。 そして幼い頃の悪夢が甦りました。私には、チリ地震が起こした津波の経験があり、通っていた小学校が避難所になって本当に恐ろしい辛い思いをしました。

それが、一瞬にして甦り、とっさに沢山の顔が思い浮かびました。可愛がってくれた先生、仲良しだった友人等々、そして故郷はどうなってしまったのか・・・。 もう何十年と帰っていなかった事への後悔・申し訳なさなどで頭の中が一杯になり、涙が溢れ、 帰りたいという気持ちが沸々と湧いてきたのです。それからというもの、毎日テレビの前から離れられません。壊滅状態の東北沿岸は瓦礫の山、成す術もなく立ち竦む人達・・・。そんな中で懐かしい東北訛りの被災者の声に、私にも出来ることは無いかと。

FIWCのメンバーが現地入りして活動していて、ボランティアの募集もしているとの情報が入ったのです。私は、何の躊躇も無く参加希望のメールをしました。出発は池袋で10時に集合し、車に分乗して一路宮城県気仙沼市唐桑町へ。唐桑はまだ危険区域で、一般ボランティァは立ち入り禁止で、芸能人や沢山のボランティアで溢れた 賑やかさは全くなく、時折グラっとくる余震と寒さと強風で、被災者の方々も気持ちのやり場がなく、私達を受け入れられるまでには相当の時間がかかったみたいでした。

▲ガレキの処理をするボランティア=宮城県気仙沼市唐桑

何故唐桑だったのか? 其処には「鈴木重雄」さんというハンセン病回復者の存在があったのです。ハンセン病啓発と地域興しに甚大な功績を残し、この世を去った鈴木重雄さん。FIWCは鈴木さんの唐桑を元気にしたい!と、災害発生後すぐさま現地入りを申し入れして、10日後には現地入りを果たし、今現在も続いています。唐桑の方は言います。「鈴木さんは、今でも私達の胸の奥で生きています。鈴木さんだったらこんな時どうするだろうか? どう考えるだろうか?と、困難にぶつかった時、鈴木さんのことを思います」と。50年という長い歴史を超えて、連綿として受け継がれてきたFIWCの精神は素晴らしいと改めて実感したのでした。

復旧支援作業は班毎に分かれての作業でした。関西や関東からの参加者の中には、東北訛りが理解できなく首をかしげる場面もありましたが、私は、 懐かしい東北弁を駆使してお年寄りの話をしみじみと聞いていました。船も家も全て流されてしまい、呆然と海を眺めているお年寄りの隣に座って一緒に海を眺めて「これが海なんだよ。でも海を恨む事はない。私達は海に恩恵を受けてきたんだから」という言葉に頷いて。瓦礫の山を見ながら、こんな形であっても故郷へ帰ってこられて、故郷との絆を取り戻せた気がしました。「来年は又絶対に漁をするよ! 牡蠣の養殖も始めるから食べにきてくれるか? それを励みにがんばるよ!」と涙でくしゃくしゃになった顔で言ってくれました。また帰ってくるよ、此処は私の故郷だから!

▲避難所で交流する門屋和子さん(正面右)
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