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家族の絆を取り戻そう ハワイ・オハナの会の活動について 村上 絢子 この4月、ハワイのカラウパパ療養所在住のキャサリン・プアハラさんと娘のポーリーンさん、タカユキ・ハラダさん(お兄さんがカラウパパ在住、「タカツよ」参照)、ジャーナリストのバレリー・モンソンさん、国立公園サービスのジェニファーさん、IDEAセンターのアンウェイ・ローさんたちが多磨全生園を訪問しました。IDEAジャパンは、ミニ集会と歓迎会を計画して、ハワイの皆さんと交流を深めました。
ハワイではいま、ポーリーンさんや、ハラダさんを中心にオハナの会という家族会をつくって、失われた家族の絆を取り戻そうという活動を始めたところです。「オハナ」とは、ハワイに自生しているイモの一種で、茎を土に挿しておくと、イモの子が出来て、どんどん増えてゆきます。そのイモのように、快復者とその家族が手をつないで、大きな家族になろうとしています。 その中心で活動しているキャサリンさんとポーリーンさん親娘について紹介します。 私がキャサリンさんと初めて会ったのは、1997年でした。闘病記録を出版した森元美代治・美恵子さん夫妻が日本人代表として、国連本部で開催された「尊厳の確立展」(WHO・IDEA主催)に出席したとき、私も同行しました。眼の不自由なキャサリンさんは車椅子に乗ってハワイからやって来ました。重度の障害を抱えているにもかかわらず、可愛い声で、朗らかにハワイアンソングを歌う姿が印象に残りました。その翌年、ハワイで開催された同展で再会したとき、キャサリンさんは私の声を覚えていてくれました。カラウパパ(モロカイ島)の飛行場の木の下で、たまたま二人きりだったとき、キャサリンさんは生い立ちを話し始めたのです。9歳で発病して、自宅からホノルルのカリヒ病院へ連れて行かれるまで、泣いて過ごしたと言います。 そして「生きながらの墓場」と言われたカラウパパへ収容されました。まだプロミンがなかった時代で、後遺症が残ってしまいました。病気が治って帰省すると、遊びに来た友だちから、「あら、指が曲がっているのだから、まだ治っていないんじゃないの?」と言われて、悲しくて、それ以来、人前で両手を見せないようになったのです。 でも、あるとき、「もう治ったのだから、手を隠すことはないんだ。これが私なのよ」と思い直し、堂々と生きようと決心しました。そして、世界の子どもの患者を励ます活動を始めたのです。 02年、NY州セネカフォールズで開催された第1回国際ハンセン病女性会議に来たキャサリンさんの車椅子を押していたのは、娘のポーリーンさんでした。それまで私は、キャサリンさんに娘がいると知りませんでした。 小さな教会で各国の女性が、それぞれ抱えている問題についてスピーチをすると、ポーリーンさんも自分たち親娘について話し始めたのです。ポリーンさんは、1949年、カリヒ病院で生まれました。けれど、生まれてすぐ、母親から引き離されて、祖父母に預けられました。21歳まで、カラウパパに住んでいる両親を訪ねることができなかったので、いつも会うときは、住んでいたマウイ島からオアフ島まで行って、そこで両親とガラス越しに会っていたそうです。ですから、両親とは触れ合うことができなかったのです。 カラウパパへ行けるようになってから30年間、1年にだいたい2、3回、キャサリンさんを訪ねて、1、2週間を過ごしていました。 この女性会議に出席して初めて、母がどんなに偉大な人なのかということがわかった、とポーリーンさんは言いました。カラウパパの住人の人権のために闘い、子どもの患者を励ますなど、積極的な活動家だったキャサリンさんは、「人権のために闘ったアメリカ人女性」としてセネカフォールズにある「女性の殿堂」入りを果たしました。各国からの参加者に尊敬され、祝福される姿は、二人の30年間の交流の中では、決して見ることができなかったキャサリンさんの一面でした。「それまでは、患者の母を持ったことを恥じていたし、母に捨てられたと恨んでいたけれど、いまは母を誇りに思います」とスピーチを締めくくって、会場は温かい感動に包まれました。 今年4月に来日したポーリーンさんは、IDEAジャパンとの会合で、女性会議後に始めたオハナの会の活動について報告してくれました。「母と、これから家族としてつき合っていこう。母をもっと知りたい。一緒の時間をもっと過ごしたい」と、ご主人のリタイヤを機にハワイに移住することに決めたそうです。 「母と一緒の時間を過ごすようになったとき、“あなたのすべてが好き”という感じで、まるでハネムーンのようだった。けれど、一緒に過ごしているうちに、嫌な面がいっぱい出てきた。それでもこれは本当の家族になるためのプロセスだ。嫌なところがあっても、認め合い、受け入れるのが家族なんだということが、ようやくわかってきた。それは、いままで、母と娘という関係が全くなかったからです。失われていた時間を取り戻すために、いまも学び合っています」と。 またポーリーンさんは、こう言います。「生きて行くというのは、すべてを学ぶプロセスだけれど、人間にとって、強さと弱さの両方を知ることは大切なことだし、他の人を許すことを知ることも大切です。いまでは間違った考えだということはわかるけれど、小さいころに母に捨てられたという気持ちを、捨てることができませんでした。 ところが、それを裏返して考えてみると、母にもまったく同じことが言えるわけです。母ももちろん娘を手放さなければならなかった悲しみ、苦しみがありますし、それだけではなくて、母にとっては、まだ幼い子どもだったとき、両親から引き離されて、カラウパパへ送られて悲しんでいたはずです。 こうやって母と娘の関係がだんだん回復し始めると同時に、お互いの苦悩がどういうものだったかということが、ようやく理解できるようになりました。このプロセスは、いつか本当の家族になるための、最終的に癒しの方向に向かうためのものだと思います。いつかわだかまりも何も、すべて無くなって、本当の家族になれる日が来ると思っています」と、ポーリーンさんは言いました。 そして、自分の子どもの世代に期待しているとも言います。ポーリーンさんの娘は、おばあちゃんに会って、すっかり好きになり、学校で「私のおばあちゃんは、こんなに素敵な人なのよ」と発表したのだそうです。彼女にとっては、「快復者のおばあちゃん」ではなくて、偏見も、先入観も、何もなしに、心で触れ合った「自分の大好きなおばあちゃん」なのです。 ジャーナリストのバレリーさんは、カラウパパで長年、聞き取り調査をしていて、住人とは家族同様の付き合いをしている女性です。今回の旅にも同行して来ましたが、「あの女性会議で、まさかポーリーンが壇上に立って、スピーチするとはだれも思っていなかったのよ。そして、ハワイに戻ってから、オハナの会の活動を始めたのだから、ポーリーンにとって、セネカフォールズの女性会議に出席したことは、人生のターニングポイントになったのよ」と私に言いました。 オハナの会では、カラウパパにいま住んでいる人たちが、生き別れになっている家族と再会し、お互いの人生を理解し合い、またもう亡くなった人たちについても、聞き取り調査を続けて、カラウパパで暮らした人たちの記録を残そうとしています。家族の一員として理解し合い、再びもとの家族としての絆を結び合い、いずれカラウパパが「癒しの島」になることを願って、活動を一歩一歩進めています。 |
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