ニュースレター No.14 (2012年09月15日発行) (1) (2) (3) (4) (5)
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甥御さんが会って下さった!

会員 難波 幸矢
瀬戸内ハンセン病人間回復裁判を支える会代表

▲左から二人目が宇佐美さん、その右が難波さん
青森のハンセン病市民学会で/2012年5月

宇佐美治さんとの出会い
宇佐美治さん(長島愛生園)とはハンセン病国賠裁判を通して知り合いました。宇佐美さんは原告(全国原告団の副団長)。私は邑久光明園にある日本基督教団光明園家族教会の教会員として長島に出入りし、裁判が起こった時「瀬戸内ハンセン病人間回復裁判を支える会代表」として彼と交流をするようになりました。

裁判が終わってお部屋を訪ねました。宇佐美さんは「ハンセン病問題検証会議・検討会議」の委員になったのに、会議に連れて行ってくれる人がいないと残念がっていました。ちょうどその日が空いていたので、ボランテイアとして同行して以来、全国の療養所で開かれる同委員会に出席させて頂くことになりました。会議へ向かう道中、おしゃべりのしっ放しでした。

きっかけはお墓の話から
宇佐美さんは80歳を越えると、死を考えるようになったのでしょうか。それまで愛生園の納骨堂である万霊山に入るしかないと言っていたのに、「万霊山にだけは入りたくない」と言い出したのです。「ご実家とは縁が切れてるんだから仕方がないでしょ」と言っても「いやだ」と。「じゃあ難波家のお墓に入る?」と聞くと「おう、入れてくれ」と。

そこで私は、宇佐美さんが亡くなった後、愛生園とトラブルがないように、「難波幸矢は宇佐美さんのお骨を引き受けることに同意しています」という文書を書き、お墓の写真を同封して、愛生園に出しなさいと渡しました。「何はともあれ60年余り、共に人権のために闘ったり泣き笑いしてきた仲間の眠る万霊山ではなく、難波家のお墓でいいのか、よく考えて下さいね。入ってから愛生園に戻りたいと言っても無理ですよ。それにうちのお墓には、姑も入っていて、プライドの高い人だから、ちゃんと御挨拶しなさいね」とも申し添えました。

次は親族の話
お骨の行き場所が決まって安心したのか、会う度に家族や近所の人を気にかけるようになりました。「甥(兄の長男)と死ぬ前に会いたい。甥たちは私のことを知らないんだ。私は墓参りに来てくれるなと言われている。親父が死んだ時に香典を送って叱られた。兄嫁には『お父さんとお母さんが死んだら縁を切ります』と言われている。自分がこの病気になったためにどれほど親族に迷惑をかけたか申し訳ない気持ちがいっぱいで、どんな仕打ちも仕方がないと諦めているが、死ぬ前に甥に会いたい。甥が生まれた時、2階で寝ていた私のところへ、触ってはいけないけど見せてやると、ばば様が抱いて見せに来てくれた。しばらくして兄たちは家を出たから、それっきりだった」。

宇佐美さんの呟きと嘆きを受け止めて、私は甥御さんに手紙を書きました。「お墓の件は解決していますから、親族と近所のことなどを話しに来て下さい。決して迷惑はかけません。マスコミに知られてドラマティックな再会シーンなどにならないよう、そっと来て下さい。宇佐美さんは甥御さんに会われたら安心して逝かれると思いますから」と書きました。

甥御さんが偉かった!
宇佐美さんに住所を聞いても地番までは覚えていないし、平成の大合併で地名も変わってしまっているかもという中で手紙を出しました。郵便屋さんが「地番もないし名前も間違っていますが、お宅宛てと思います」と言って届けてくれたとのこと。甥御さんは文面を読んで、知らぬ存ぜぬで通そうと思えば通せたし、「該当者なし」の郵便局印をつけて送り返してもよかったのですが、「行きます」と連絡をくれました。

すぐに宇佐美さんに連絡しました。「行くって!」「あ、そうか。どうせ来やせんよ」…・・・来る約束のその日まで彼はそう言っていました。

甥御さんは重いお米を私のために持って岡山駅に降りたちました。よくぞよくぞ来て下さったと、あふれる思いでお迎えし,一路長島愛生園へ40キロ余りを車で向かいました。

立ったまま号泣
「ああ、兄貴にそっくりだ!」「初めまして。じい様とばあ様の写真を今まで60年余りも飾ってくれていたんですか」と書棚の、紋付き袴姿の二人の写真を見て言われました。宇佐美さんは興奮して、あの人は? この人は?とか、下の甥の名前を聞いたり、生活状況を聞いたり、矢継ぎ早に質問攻めでした。

外に食事に出ても、周りの人に何事かと思われるほど興奮して大声になり、甥御さんの知らない親族の話やご近所の話になり、「叔父さんはよく覚えていますね」と言われながら答え、最後は私の家で一週間早い誕生日のお祝いにケーキを食べ、いっぱい話して、甥御さんを岡山駅まで送りました。

駅から長島までの間中「来たなあ、来たなあ、会えるとはなあ」と言うばかり。そして倒産したとか、離婚したとか、辛い人生だった親族の話になると「オレのせいだ」と言うのです。「何でもかんでも自分のせいにしないの。外界はいろいろあるのよ。自分で稼いで自分で食っていかないといけないでしょ。うまくいかない時もあるのよ」などと私が言っても、全部自分のせいだと言っていました。

すべてのことには時がある
実は私が手紙を出す前に、甥御さんは宇佐美さんのことを知る切っ掛けがあったのです。それを甥御さんのお手紙から引用します。

「叔父・治は、『幼い時に病気で死んだ』と祖母より聞かされておりました。………私が教育長になって半年ほど過ぎたころ、共産党の議員から『宇佐美治さんが、地域文化広場での講演に来るよ。先生の叔父様ですよね』と言われました。私は60年間、祖父母や両親から、ハンセン病で長島愛生園に収容されている叔父のことは、全く聞かされていませんでした。祖母や父母の心情を思うあまり、議員の前で涙があふれて止まりませんでした。後日分かったことですが、知らなかったのは私たち夫婦だけでした。私はすぐにでも会いに行かねばと思ったのですが、悩みました。家内にもなかなか話すことができず………。私は教育長という立場上、政治活動やマスコミの餌食になるのを避けたいと思いました。いや、公になるのを恐れたように思っています」。

宇佐美さんに会って、帰られてから、甥御さんから次のような手紙を頂きました。

「『野道の草』(宇佐美さんの著書)を一気に読みました。祖父母や父母や叔父の心情を思い、涙を浮かべながら真剣に、久しぶりに精読しました。………難波さんから頂いた手紙で、愛生園へ面会に行く勇気を与えてもらい、人間としての差別意識を再度勉強する機会となりました。そして私の知らなかった宇佐美家の歴史の一端を聞くことができ、我が家の歴史の空白を埋めるものとなりました。多くの皆様に支えられ、ハンセン病絶対隔離政策に立ち向かい、国賠裁判やハンセン病補償法の成立などに尽力した叔父を誇りに思っています。………市長と二人で話す機会があり、勇気をだし、叔父のことを涙を流しつつ話しました。今まで胸につかえていたことが徐々に少なくなっていくように思えました。講演の講師を時々させて頂いていますが『私の叔父はハンセン病だった』という題で話せそうな気がしています」。

すごい人です。甥御さんは本当に偉かった。腹をくくり叔父さんに向かいあった! どれほどの決心か! 政治家も記者も、ともすると土足で人の心に踏み込むようなところがあり、私はひたすら、あっちにも人権があるのだ、家族を守らねばならないのだと、甥御さんへの他人の介入に本当に慎重でした。けれど、すべてのことには時があって、家族が関係の回復を成し遂げることができました。私は2009年の奇跡だと思っています。それもこれも甥御さんの勇気のおかげです!

おかげさまで、甥御さんから「先祖のお墓にどうぞ入って下さい。墓参りに来て下さい」と言ってもらい、ご両親のお墓の前で長い時間深々と宇佐美さんは頭を垂れていました。仏壇にも蝋燭と線香とお土産を供えることができました。


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