ニュースレター No.13 (2012年6月20日発行) (1) (2) (3) (4) (5)
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内池慶四郎先生を偲んで @ 森元理事長の学生時代からカミングアウトまで

理事 水藤 一彦

平成24年2月18日病気のため内池慶四郎先生が亡くなられた。享年79であった。

▲内池先生の定年をお祝いする会。
平成10年2月21日、浅草ROXニューオータニで。後列中央が内池先生。
右端が筆者の水藤一彦氏。前列左端が理事の北裏卓次氏

内池先生はIDEAジャパンの森元理事長、北裏理事そして私の共通の恩師である。具体的にいえば、3人は内池先生が助教授の時の最初のゼミの同期生ということになる。内池先生は昭和38年に慶応義塾大学法学部の助教授、44年教授になられた。専攻領域は民法(特に総則、債権法)であり、「出訴期限規則略史」「不法行為責任の消滅時効―民法第七二四条論―」「消滅時効法の原理と歴史的課題」の二部作によってわが国の時効法研究の第一人者としての地歩を固められた。平成10年定年退職、その後平成15年まで他大学で教壇に立たれた。

私たち3人は先生の示唆もあり、当時普及しはじめたスーパーマーケットに於ける法的問題点の研究を卒論のテーマにした。他に4人加わり合計7人で法律論とスーパーの店長が実際にはどう対応するかのアンケート調査を実施し、その結果もあわせて卒論を仕上げた。頁数は900頁を超し、電話帳のような厚さとなった。

卒論の作成中はしばしば先生のお宅にお邪魔して、ご教示を仰いだり、雑談に花を咲かせたりして、楽しいひと時を過ごした。先生は33歳という若さであった。そして、私たちは昭和41年3月無事卒業した。

森元理事長は都内の信用金庫に就職したのであるが、4年後の昭和45年ハンセン病を再発した。彼は「皮膚に湿疹が出来、医師に相談したところ、都会の空気が合わないため生じたものであり、故郷へ帰って転地療養をした方がよいと言われたので、会社を辞め喜界島に帰ることにした。身体がよくなったら島で学校の先生でもするよ」と言って、私たちの前から姿を消した。実際は島に帰らずにハンセン病の療養所である「多磨全生園」に入ったのである。

喜界島へ年賀状を出すと別の人の字で返事が来るので、おかしいなと思い電話をすると身内の人が出て来て、美代治は大阪の方へ行っているのだが、自分たちも連絡がとれない状況にあるという応答で、行方知れずの状態が何年も続くのだった。

内池先生からは、学生が卒論の相談に来ると、電話帳のような卒論を学生に見せて、「君たちにはこんなすごい卒論を書いた先輩がいるんだぞ」と脅かしているとの冗談めかした話があり、「ところで卒論を書いた森元がOB会へ出てこないがどうしているのか」と訊かれる。最初の年は「実は行方がわからないのです」と答え、2年目以降は「依然として行方がわかりません」と答えるしか無かった。

私たちの前から姿を消して26年の月日がたった平成8年10月2日の朝日新間に森元夫妻の写真入りの記事が掲載された。そこにはハンセン病で隔離された森元夫妻がカミングアウトし、偏見と差別の無い社会をめざして活動することが書かれていた。

私はビックリすると同時に26年 間音信不通であったことに「そうだったのか」と合点がいった。内池先生や友人に新間のコピーを急いで送付した。友人からは「ハンセン病のことなんか気にしていない。会えるのを楽しみにしている。水藤から森元に連絡をとってくれ」と指示が来た。

10月10日、私は多磨全生園へ電話し、みんなが会いたがっていること、ハンセン病のことは気にしていないことを彼に伝えるとともにみんなと会うことを約束した。

後日知った話だが、たまたまこの日は、多磨全生園で『証言・日本人の過ち ハンセン病を生きて』の出版記念会が4時 から開催されることになっており、どういう挨拶をしようかと考えているところに、私の電話が入ったそうで、それまでに考えていた挨拶の内容を全てやめ、この電話の内容を挨拶に使ったとのことである。

数日後、親しい友人たちと26年ぶりの再会を喜び合った。その席で私は、 11月16日に目黒雅叙園で開催される内池ゼミのOB会 に出席しないかと誘った。彼は、元ハンセン病患者の自分がいきなり飛び込んで行ってどうか、伝染するのではないかと警戒したり、嫌ったり、怖がったりするのではないかと言って出席を拒んだ。私は今日集まった親しい友人たちが歓迎したように、OB会 のメンバーも歓迎してくれるから心配はいらないと彼を説得した。最終的には夫婦で出席することになった。

OB会 の当日、森元夫妻の挨拶に続き挨拶に立たれた内池先生は「99匹の羊は自分の目の届く所にいて安心だったが、一匹の迷える子羊だけがどうしても行方がわからなかった。その森元が今夜自分の胸に飛び込んできたのだ。こんな嬉しいことはない。教師冥利に尽きる」と話され、壇上で彼を抱きしめた。彼は先生の胸に顔を埋めて泣いた。妻の美恵子さんも泣いた。会場にいるOBの みんなも泣いた。

この日が森元夫妻がカミングアウトを果たした最初の日となった。

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