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心のしこりから解き放たれて −−67年ぶりの墓参り−− 理事 村上絢子
幸子さんの両親は、戦前ハンセン病と診断されて沖縄から星塚敬愛園に収容されました。すでに妊娠していた母親は強制堕胎を拒否し、夫婦そろって敬愛園から脱走し、熊本へ逃げました。そこで幸子さんの兄と幸子さんが生まれたのです。 いったん沖縄に戻ったあと、1942年、日本の植民地だった台湾へ一家で渡りました。病状が悪化した母親が楽生院に入所したので、乳飲み子だった幸子さんは兄と一緒に沖縄の祖母の元へ送り返されました。 父親は別の女性と再婚し、兄は漁師のもとへ年季奉公に出され、幸子さんは養母に預けられ、一家は離散。養母に大事に育てられたものの、成長するにつれて幸子さんは「自分は生みの親に捨てられた」と思い込み、母親を恨み、憎み続けていたと言います。 ところが25年ほど前、台湾の楽生院で母親と同室で、最後を看取ってくれた”おばさん”と愛楽園で偶然知り合って、母の様子を知ることになりました。母親は楽生院に入れられ、子どもたちと引き離されたことで精神に異常を来たしてしまいました。子どもたちがひもじい思いをしているのではないかと、プロミンの注射器入れの箱にご飯を詰めて、子どもたちに食べさせるのだと、門まで行っては、連れ戻されていたそうです。赤ん坊を産み落としたのにも気づかず、25歳で亡くなりました。 台湾で一人ぼっちになった母親を思いやれるようになったのは、幸子さん自身子どもを持ち、自分の人生と母親の人生を重ね合わせて、母親の苦しみと自分たちへの愛情ががわかったからだと言います。 私が楽生院へ行くとき、何度か幸子さんを誘ったのですが、講演活動で忙しい幸子さんの日程の調整がつかず、若いころのお母さんの写真を託されました。その写真と「よしこ」という名前を頼りに、楽生院で幸子さんの母を知っている人を探しました。同時期に楽生院に入所していた雪花さんという、貴婦人のような女性を探し当てたのですが、雪花さんの記憶に「よしこ」は残っていませんでした。 楽生院での法要当日の朝、幸子さんは無口で、緊張した顔つきでした。前回の訪問で知り合いになった雪花さんを訪ねると、雪花さんは日本語で「年をとったので、昔のことはもう忘れた」と言うのですが、それでもすがりつくような眼差しで、当時の話を聞き漏らすまいとしている幸子さんの様子が印象的でした。 納骨堂で、大勢の大谷派の僧侶が朗々とお経を唱えて法要が終わると、幸子さんは突然、日本人の遺骨が収められた壁に両手を広げてへばりついたまま、「母ちゃん、ごめんね」と繰り返し、嗚咽していました。 しばらくして振り返った幸子さんは、母と生後間もなく亡くなった弟の法要を、67年ぶりに無事に済ませた安堵感からか、朝とは別人のように清々しく穏やかな面持ちに変わっていました。
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