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無条件に愛するということ − 修復された母とのつながり ポーリーン・ヘス(オハナの会副理事長) ジュビリーとキャサリン・プアハラの娘として、誇りを持って皆さまの前で話をさせていただきます。私は生まれたすぐ後に、法律の定める通り両親のもとから連れ去られました。ハンセン病という病気のためです。生後間もない子供を両親のもとから連れ去るという、およそ自然に反する事態によって、私たち親子は人と人との関係、身体的、精神的なつながりも持つことを奪われました。私たちが癒しの過程をたどることができるようになったのは、私たちを隔てていた垣根がなくなり、人と人としてつながり、触れ合うことができるようになってからです。 両親のもとから連れ去られた私は、祖父母に育てられました。祖父母は非常に私をかわいがってくれましたので、両親に育てられていないことも、それほど辛いと思ったことはありません。祖父母も家族も私の両親のことをよく話してくれました。その話から、私の両親に深い愛情を持ってくれていることは明らかでした。けれど私は、周囲の人が両親の病気のことを知ることを恐れ、びくびくしながら暮らしていました。当時の一般の人の持っていたハンセン病に対する感情は恐怖、恥、秘密でした。私も両親の病気のことを隠していましたが、それでも陰口や憐みの視線から逃れることはできませんでした。みんなが私の両親や私について話していることは分かっていました。私にできたのはただ一つ。いつもうつむいて、心の痛みを胸に閉じ込めておくことだけでした。 私は両親を責めました。責めるべきは両親ではなかったのに。何かこれといったとても悪いことが起きたということはありませんでした。でも耳にした心ない言葉は、それからも長いこと私の心に残っていました。 1年の大半はラハイナという町で祖父母と暮らし、学校に通いました。祖父母は両親と私の絆を途切れさせないように、ずいぶんと心を配っていました。手紙を書いたり、電話で話をしたり、夏にはハレモハルに両親に会いに行きました。ハレモハル(癒しの家/ハンセン病の宿泊治療施設)での面会というのは、実に奇妙で不自然なものでした。塀や門が私たちを取り囲み、そして隔てているのです。体に触れ合うことが禁じられているのは明白でした。両親が私のことを愛してくれているのも、なんとか会話を続けようとしてくれているのはよく分かっていました。でも幼い子供だった私は、それよりは他の子供たちと一緒に遊びたいのが本音でした。このハレモハルでの面会は、モロカイ島にあるカラウパパ療養所に両親に会いに行くことができるようになるまで続きました。
父が亡くなり、母の生活は一変しました。私はハワイに戻り、許可が出たため、母が一人で暮らしていけるだけの心の準備ができるまで、数週間を一緒に過ごしました。台所のテーブルに腰掛け、母が父のことや母の家族のことを話してくれた時間が、とても大切なものに感じられます。母が病気にかかったのが9歳だったこと。病気のため娘(キャサリン)を手放さなければならなかった父を恨み、父が「娘が患者である」と役所に届け出たことで、親に捨てられたと感じていたこと。一方で、生まれたばかりの私を手放さなければならなかったときの、引き裂かれんばかりの心の痛みについて話すことは、母にとってもとても難しいことでした。私たちをつなげていたのは、この“心の痛み”でした。ようやく母の心の痛みや苦悩、そして私たち二人とも持っていた「親に捨てられた」という思いを理解できるようになったのです。私に話してくれたことを、心から感謝しています。母はおしゃべり好きですが、同時に聞き上手でもあり、よき友、親友でもありました。 私と母の関係が強まったのは2002年に起こった、ある予期せぬ出来事でした。ニューヨーク州のセネカ・フォールズで開催されたIDEA主催の国際ハンセン病女性会議に、カラウパパからのグループの一員として招待されたのです。カラウパパからの参加者の一人に、私の母、キャサリンがいました。会議前は、母やカラウパパの他の人たちと会ういい機会になるくらいに考えていました。 この会議で私は、これまで知らなかった母の一面を知ることができました。人権活動家としての母。ユーモアと魅力と機転でみんなの気持ちを盛り上げる国際的なムードメーカーとしての母。そんな母は私の誇りでした。会議で話すつもりなどありませんでしたが、母やその他の参加者に勇気をもらい、私の話をすることにしたのです。 ハンセン病にかかった両親を恥だと思っていたことを、そして私が心に抱え続けてきた「親に見捨てられた」という気持ち、嫌悪感、心の痛みについて。その日、私はこれから両親を敬い、恐れも恥も秘密も捨てて、両親のことを話すことを誓いました。この誓いは今でも守っています。時にはとても難しいこともあります。しかし、これは私自身を豊かに、そして力づけてくれる旅路でもあるのです。その当時は知りませんでした。こんなにも学ぶことがあるなんて! 母のことをもっと知りたいという気持ちが、オハナの会(カラウパパ入所者の家族会)に結びついていったのです。オハナの会は、1866年から1969年の間にカラウパパに収容された8000人もの人たちに、その生命の価値と尊厳を取り戻すことを目的としています。オハナの会は私が家族の一員として成長していく重要な役割を果たしてくれています。オハナの会での1年目は非常に消耗するものでしたが、母と私の癒しの過程でもありました。父や母の犠牲を認識し、理解し始めることができたのです。 私の娘の存在も大きく、ハンセン病に対する新しい世代の考え方を教えてくれました。娘は心ない言葉やハンセン病に対する偏見を体験せずに済みました。カラウパパに住む祖父母のことを、隠すこともなく、友達に愛情たっぷりに話していました。 私を取り巻く世界やその他もろもろが、私を「目覚め」させ、「癒し」へと導いていってくれたのです。母がいてよかった、この母でよかったと心から思います。オハナの会会員の非常に親しい友人が何人かいますが、この人たちはカラウパパに暮らしていた家族に一度も会うことができませんでした。こうやって父や母といい関係を築き上げることができた私は、なんと幸運だったのでしょうか。 母と共に過ごす時間が増えるにつれ、たとえ母と娘として共に暮らすことができなかったとしても、私たちのしぐさや性格がどんなに似通っているか気が付きました。母との関係は「ハネムーン期」から始まりました。お互いに自分の一番いいところを見せようとする時期です。まるで互いに自分の姿を鏡で見ているかのようでしたが、その鏡に映る姿を見て、辟易することもありました。母のことは愛していますし、娘として、私たちの関係は、よくある母と娘の関係だったと思います。 母は気が短く、エネルギーにあふれ、活き活きしていて、頑固で、愉快で、勇敢で思いやりのある人でした。体は小さかったけれど、心はとても大きい人でした。人生を楽しむことと、そして自分の豊かな感情を周りの人と分かち合うことを知っていました。心は澄みわたり、いつも前向きでした。周囲の人たちをやる気にさせ、動かしていく人でした。その母が2008年7月に計画したのが、「7月のクリスマスパーティ」でした。友人に別れと感謝を告げる母なりのやり方だったのだと思います。 2008年7月30日、母キャサリン・プアハラは突然の死を迎えました。81歳でした。母の最後の願いは生命維持装置を取り付けないことでした。臍帯の切断を象徴するコードの切断による母の死は、平穏な心と理解を、そして私たちをつなげていた痛みからの解放をもたらしました。母と娘としての関係や、体と心のつながりが、ようやく一巡したのです。子ども時代に傷つけられ続けた言葉によって傷つくことは、もうありません。母と父を無条件に心から愛し、そして母と父が私を心から愛してくれていることを知っているのですから。 |
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