ニュースレター No.17 (2014年02月25日発行)
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国賠裁判から療養所のいま -徳田靖之弁護士講演会(2013年12月8日)-


● ハンセン病問題にかかわるきっかけ

皆さん、こんにちは。ご紹介いただいた徳田です。私は大分県で弁護士をしておりまして、田舎で幼なじみに囲まれてごく平凡な弁護士をしてきました。私にとってハンセン病問題は、自分が長い間何もしてこなかったことを恥ずかしく思ったことから始めた仕事であって、けっして人様に誇れるような高い志からこの仕事を始めたわけではありません。

私が初めてハンセン病のことを知ったのは、小学校に入る前に聖書を通じてです。私の父親は太平洋戦争で亡くなって、母は26歳で戦争未亡人になりましたので、祖父母に育てられました。近所の無教会派の敬虔なクリスチャンの方が私に聖書を教えてくれて、毎週日曜日にマタイ伝(塚本虎二訳)を子どもなりに読んで、自分がこれから生きようとするときに何を大事にしなければならないかを考えていました。そのとき聖書に「レプラ」とあったのが「ハンセン病」だと教えられ、そういう患者さんがいるということを初めて知ったわけです。

次にこの問題に出会ったのが、映画「ベンハー」です。その映画でハンセン病の患者さんが大変な差別や迫害の中で生きている様子を知りました。3番目は、大学に入って北條民雄の小説『いのちの初夜』を読んで、ハンセン病問題について考えるようになったのですが、恥ずかしいことに私はどう生きていけばいいのかと自分に問いかけないままにしていました。

弁護士になってから親しくなった友人に血友病の患者さんがいました。彼は薬害エイズ裁判の原告になったのですけれど、その友人から国は「エイズ予防法」という法律を制定しようとしていて、薬害エイズの血友病患者を取り締まろうとする「エイズ予防法」には下地があって、それが「らい予防法」という法律だと教えられました。

そのとき初めて「らい予防法」を第1条から最後まで読みました。ひどい法律が生きていたものだというのが最初の印象でした。こんな法律がまだ生きていてたくさんの人が療養所の中で暮らすことを余儀なくされているということに私なりに心を痛めたわけです。ですが私は薬害エイズ裁判を一生懸命やろうとしていたので、「らい予防法」に弁護士としてどう向き合うのか、「らい予防法」によって長い年月を隔離されている人たちに対してどう思いを及ぼすのか、それができないままでした。

● ハンセン病国賠訴訟の弁護士に


たぶん1995年だったと思いますが、ハンセン病療養所の星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)に住んでおられた島比呂志さんが九州の弁護士会宛てに手紙を書いています。私は弁護士会の委員の一人としてその手紙を読みました。「らい予防法のような世界に類を見ない悪法をかくも長きにわたって存続させたことについて、人権に最も深いかかわりを持つはずの弁護士会は沈黙したままだ。それでいいのか。法律家としての良識を示してほしい」と書いてありました。全身をムチで打たれたような気持ちになりました。島さんの本にも「弁護士会、あるいは弁護士にいくら訴えてもなんの反応もない。沈黙とはハンセン病隔離政策を支持していることだと理解しているのか。支持と言えば聞こえがいいが、何もしないのは加担だと考えたことがあるのか」と書かれていました。

これはショックでした。この手紙を読んだとき、私はもう50歳を越していたので、自分はなんと長い年月何もしないまま、こんな大事な問題についてかかわってこなかったことかという、いわば許しがたい罪を犯してきたと感じざるを得なかったのです。その罪をどのようなかたちで償えばいいのかという気持ちから、ハンセン病療養所を訪ねようと思ったわけです。

最初に星塚敬愛園に行きました。「いまごろ来て何になる」と言われると思っていましたから、そう言われたら土下座して謝ろうと覚悟を決めて行きました。ですから二重、三重に鎧のようなものを着て行ったのです。すると10人ぐらいの方がニコニコしながら「よく来てくれた」と、私たちをまるで抱き抱えるように迎えて下さいました。ビックリしました。そんなふうに迎えられて、自分はとてつもなく考え違いをしているのではないかと感じさせられたのです。

いまでもよく覚えているのは、最初のときにお会いして、つい先日95歳で亡くなられた田中民市さん(熊本地裁の原告団長)です。「親きょうだいに迷惑をかけたくない。死に場所を探してあちこちを彷徨った末、死に切れずに療養所に入った。そこで美枝と出会って、この人と一緒だったらここでも生きていけるんじゃないかと思って結婚しようとした。しかし2人同時に外出許可をもらえないので、美枝だけが外出許可を取って外に出た。自分は密かに抜け出して結婚式を終えて、園に帰ってきたところで監禁室に入れられた」。

つまり「自分は何も知らなかった」と謝ろうと思って、自分のことしか考えていなかった私と、その長い年月の間に苦難を味わってきた皆さんを比較したとき、自分はなんて間違った方向でこの問題を考えようとしているのか知らされました。言ってみれば、胸をえぐられたと言えばいいんでしょうか。そうやって私に教えてくださった一人ひとりの長い人生の苦難に、いまからでいいから自分はどう向き合うのか、それを考えることがいま私のすべきことではないかと思わざるを得なかったわけです。

そんなことで私は1998年、やっとこの問題にたどり着いたに過ぎません。最初に星塚敬愛園に行ったときに感じたことを忘れずに、残された人生を歩んで行こうとしているに過ぎません。ですから私は後からついてきた人間だと思っていますし、そのように私のことを理解していただきたいと思います。

● 国賠訴訟の意義

今日は国賠訴訟それ自体をお話しするよりも、「療養所のいま」についてお話ししたほうがいいと思うのですが、「いま」を理解していただくために国賠訴訟とはどういう意味があったのかについてお話ししようと思います。正直言って国賠訴訟の当初、私たちは大きな過ちを犯しました。過ちというのは、戦後一貫してハンセン病問題を当事者として命がけで闘い、運動を担ってきた全患協(現・全療協)に相談せずに裁判を始めてしまったことです。それは、自分たちは罪をどのように償うかということが先に立っていて、あまりにも狭い視野でこの裁判を考えてしまった現れだと思います。ですから裁判を起こした当初、この裁判は広がっていきませんでした。

長島愛生園に説明に行ったときのことです。この国賠訴訟の中で国の隔離政策の過ちを憲法に照らして明らかにしなければいけないと話し終えたとき、会場の隅におられた車椅子に乗った方が突然大きい声を出して、「お前たちに何がわかるか! 療養所がなかったら、のたれ死にしていた。この法律のお陰で救われた。いまごろやってきて偉そうなことを言うな」と言って、スッと出て行ったのです。

そのときにも感じたのは、私たちは苦難の人生を歩んでこられた人たちの思いをどれほどわかって裁判をしようとしているのか、ということでした。正義の味方になったような気になって、国を相手に裁判を起こしたと言えば、どこでも歓迎されて、次々に「私もやります」という声が上がって、たちまち全国に広がって国を圧倒するだろうと、あさはかに考えていた。けれど、それはとんでもない思い上がりでした。


そうした出発点における過ちが、この裁判が一気に広がっていくということを阻みました。ですから最初は孤立していました。弁護士の私は星塚敬愛園の面会人宿泊所に泊めていただけません。毎月1回、大分から鹿児島まで通いましたけれど、ずっと原告の方の部屋に泊めてもらいました。

ただ振り返ってみると、それが良かったという面もあります。原告の部屋で寝たり、夜遅くまで酒を飲んで話したり、そういうことを繰り返して行くなかで、私が変わりました。何がいちばん変わったかというと、「主人公は原告の皆さんだ」と気づいたことです。この人たちのすごさ、優しさ、豊かさというものを裁判のなかで明らかにし、いかに裁判官や世間の人たちに知ってもらうか、それこそが私たちの仕事ではないかと考えるようになったということです。

象徴的だったのは、検証のために裁判長を大島青松園へ連れていったときです。高松港から官用船に乗って、青松園の桟橋から降りるときに裁判長の顔色が変わった。そのとき裁判長が「これは隔離だ」とつぶやいたのです。また栗生楽泉園に東京地裁の超エリート裁判長を連れて行ったとき、原告の鈴木幸次さんがどんなふうに強制労働を強いられたか実演しました。それを見た裁判長は検証が終わったときに「去りがたい思いがします」と言ったのです。つまり裁判所の中で活字を読むとか話を聞くのではなくて、実際に療養所に行ったときが、裁判官たちはいま裁判をしようとしている事柄は何だったのかということを肌で感じた瞬間ではなかったかということです。そういう状況が各地で重ねられていって、あの勝訴判決につながった。つまり被害を受けた皆さんが主人公の裁判だった。それがあの判決をもたらしたと思っています。

● 小泉首相の控訴断念

国賠訴訟の判決それ自体も歴史的でしたけれど、控訴期限ギリギリで、当時の小泉純一郎首相は控訴断念したわけです。首相官邸と議員会館の周りで座り込んだ方たちが今日たくさんいらっしゃいますが、あのときはすごかったですね。よく弁護士仲間で「あの裁判に勝ったことは奇跡だけれど、完膚無きまで負けた国が控訴しなかったのも奇跡だ」と言う人もいます。その人は首相官邸前に集まった人たちの雰囲気、官邸宛てに全国各地から寄せられたファックスやメールを見ていないからそう言うのだと思います。まさに多くの人たちが首相官邸を包囲するという歴史的状況が出来上がっていました。

私たちが東京に詰めていたら、星塚敬愛園から「加藤さんがハンストをしている」という電話がありました。加藤さんは、「後遺症が重いので東京に行けない。みんなが命がけで闘っているのに自分は何も出来ない」と、突然ハンスト宣言して食事を一切摂らなかった。「どうか止めてください。私たちが徹底的に闘って控訴断念を勝ち取りますから」とお願いしても、「自分がやれることといったら、ハンストしかない」と言って引かないのです。そうなるとこちらも泣きながら説得するしかありません。「どうか止めてください。こんなことであなたの寿命を縮めたら何になるんですか」と説得しても頑として止めません。そういう状況が各地にあって、それが小泉さんの控訴断念を呼び起こしたと私は思っています。

また、それまで人間解放の道を目指していた個人とそれを支援する市民グループが一つの輪になって、この裁判を支援して行くというかたちになって、全国に広がっていきました。国賠訴訟の意義は、まさに多くの市民と全療協と被害に遭われた人たちを結びつけたというところにあるのではないか。それこそが国賠訴訟の歴史的意義の第一であると私は思っています。

● 人間回復へ

国賠訴訟の判決は、隔離政策は憲法違反であるということを明らかにしました。憲法に違反しているという判決を得たことが、その後のハンセン病政策の基本的な政策を決めたと言ってもいいでしょう。ハンセン病の隔離政策を廃止していくときに、厚生省、あるいは政府がどういう考え方をしたかというと、「らい予防法の廃止に関する法律」という、わけのわからない名前の法律をつくることによって、予防法を「安楽死」させ、責任を問われないかたちで隔離政策を止めるという考え方を取りました。だから、予防法を廃止した後は、一般的な福祉政策の一つとしてハンセン病の問題を考えようというのが政府の考え方であったのではないかと思います。それが熊本判決で、隔離政策を支えた「らい予防法」という法律は憲法違反だということになった。では、責任はどう取るかという問題が必然的に出てきます。国賠訴訟以後のハンセン病政策は、憲法違反を犯してしまった国が、その被害をどう回復して行くかということに絞られました。

私たちが国賠訴訟を考えるときに「人間回復」という意義を果たしたのではないかと言います。この国賠訴訟のなかで、どれほど多くの方たちが苦難の人生を振り返って陳述書というかたちでまとめて裁判所で証言したか。国に対して、自分たちはこういう人生を歩まされてきたんだということを明らかにして行く過程、これが人間回復につながったのではないかと思います。

ある方が私にこんな話をされました。忘れもしません、裁判を起こした翌年のゴールデンウィークに邑久光明園から「原告になりたい人がいるから会って下さい」と電話があって、まだ原告の少ない時期でしたから、「これはチャンスだ」と思って喜び勇んで行ったのです。

両方の視力を失い、なおかつ補聴器がないと会話ができない70代の方が私を待っていました。その方は、いわゆる患者労働で両手の指を失っていました。目の前に弁護士がいると聞いたら突然大声で「近所の人の密告で邑久光明園に送られて来た。母親が面会に来て、『お前が収容されて間もなく、妹が嫁ぎ先から離婚されて送り返されてきた』と言うので、『母ちゃん、なんで妹を黙って連れて帰ったんだ』と言ったら、いつも優しい母親が声を荒げて、『お前、そんなことを言える立場か。兄がハンセン病だということを黙って嫁がせたことを土下座してお詫びして、妹を連れ帰ったんだ』。妹は帰って来た後、家を出て行ったきり、どこにいるかわからない。そのとき私は張り裂けるような思いだった。自分が、妹が、何をしたっていうんだ。一目でいい、妹に会って詫びたいけれど、妹に会えない。いつか自分や妹が味合わされた、この苦難を話す日が必ずくる。どんなに地獄のような所でも生きてみせる、耐え抜いてみせる。それから50年経って国賠訴訟が起こされたと聞いたとき、ついに来たと思ったんだ」と、わっと泣き出したのです。私のようなひ弱な人間はそういう話を聞くと、一緒になって涙を流すしかありませんでした。人間って強いなあって思いました。私は国賠訴訟のなかで「人間回復」という平板な言葉では表現できない、そういうすごい人たちに出会うことができたと感じています。

● 療養所の将来構想

そのように国賠訴訟は歴史的意義を果たしたのですが、1世紀近く隔離政策を続けてきた政府、国家権力が簡単に諦めてしまうことはありません。国賠訴訟の前から、いかにして療養所に人や予算を割かないで済ますことはできないかと療養所の合理化を考えていました。この背景に財政難という問題があったので、政府全体で暗黙の了解が出来つつあった。その最中に国賠訴訟の判決が出て、その後にそれをどうするかという問題が起こってきた。これが将来構想と言われている問題です。

しかし私たちは、国が罪をきちんと認めて被害を回復する上で、将来構想はどうあるべきかという議論を始めていきました。答えは、療養所を医療施設、あるいはその他の施設として地域に開放して、療養所ごとに社会復帰という方向を目指すものでした。そうすることで療養所に居る人たちが最後まで安心して医療や看護・介護を受けられる療養所をつくれると考えたわけです。

そのために私たちが取り組んだのがハンセン病基本法(基本法)でした。基本法には大きなことが三つ書いてあります。一つは、これからのハンセン病問題を考えていく際には、国の責任に基づいて被害の回復を図ることが原則であること。二つ目は、国は療養所の医師、看護師、介護士の確保に努めなければならないということ。3番目に、入所者が希望すれば、療養所は地域に開放することができる、です。全療協の皆さんと協議して、こういう法律をつくろうとしたときに、9ヶ月ぐらいで署名の数が98万筆を越しました。こんなことは歴史上ありません。この法律ができたことで、療養所の問題は基本的に解決するだろう、と考えてしまった。法律家は法律をつくると、解決したように思ってしまう。悲しい職業病ですね。

ところが私たちより役人や政治家ははるかにしたたかで、法律が出来ても、その法律を棚上げしてしまえば、何も変わらないということを知っている。法律は出来たけれど、その法律に基づいた政策が進まない。 しかし、基本法を実現化する闘いをずっと続けてきた結果、多磨全生園と菊池惠風園では保育所ができました。沖縄愛楽園は4ベッドを地域に開放することができました。松丘保養園も地域に開放していますし、奄美和光園も市民が入院施設として使うという協定ができました。邑久光明園は特別養護老人ホームの誘致が決まって、建設工事が始まっています。星塚敬愛園も障害のある子どもたちのいろんな施策をしている団体が、総合的な支援をしていくことになりましたし、官用船でしか行かれない大島青松園では地域交流の施設が具体化する等、各地で将来構想が少しずつ実現化し始めています。これは基本法を形骸化するな、基本法に基づいた施策を取れという長い間の運動の成果ではないか。諦めずに行動することが将来構想をさらに広げていくことになるのではないかと思っています。

● 療養所のいま

将来構想については少しずつメドが立ってきているのですが、深刻な問題が起こっています。国家公務員の定数削減によって人件費を大幅にカットしたいという閣議決定が繰り返されていて、ハンセン病療養所もこの対象になっているのです。対象になっていないのは、警察官と自衛官だけです。定数削減は基本法違反だ、職員の定数を減らさないように、と全療協は10年近く要請し続けてきました。しかし国家公務員の定数削減は閣議決定であるので、実現することはできないというのです。

それで2年前に神美知宏全療協会長が厚労副大臣との交渉の場で、「これ以上国が療養所の職員定数を減らし続けるのなら、ハンストを含む実力行使に入る」と決議宣言をしました。平均年齢83歳の方たちが、ハンストの決意をするということは、どれほど並大抵でないか。ハンストをしてでも療養所職員の定数を減らさないでくれと叫んでいるのは、重い障害を持っているからです。食事や入浴には1対1の介護が求められるのに、定数削減によってできません。何十年間と隔離政策の被害を受けた方たちが最後の人生を療養所で過ごそうとしているときに、果たして憲法違反の罪を犯した政府が、「生きて来て良かった」と思える最後の生活を保障していると言えるのか。言ってみれば、尊厳を賭けた最後の闘いは、定数削減を阻止するという闘いなのです。

私がお願いしたいのは、ハンセン病問題基本法を制定したときに、100万人近い方たちがこの運動を支えてくださいました。いま83歳を超えた方たちの運動は、年齢的に大きな限界があります。私たちと厚労省との闘いは、市民の皆さんの支援なしには前に進めません。なんとかして私たちの重い決意を厚労省や安倍晋三総理に突きつけて、国に最後まで責任を取らせることが出来るのか出来ないのか。おそらくそれが最後の闘いになるのではないかと思っています。すでに入所者の数が2,000人を切りました。全療協の運動能力はあと1年です。 いま全療協の運動をどう支えていくのか、どう応援していくかということが、私たち支援者に科せられている責務ではないかと思っています。

隔離政策が1世紀近く続いてしまったことについて、たしかにその責任の大半は国にありますけれど、じつは社会の側にも責任があるのではないか。基本的には無らい県運動が行われて、患者さんとその家族を地域から排除していった。その加害者の役回りは、隣近所の人たちが、心ならずも演じてしまったのではないか。市民が社会の側の「加害者としての責任」という問題にきちんと向き直すことが、ハンセン病隔離政策を許した側の責任として問われているのではないかと感じています。これからも皆さんと一緒にハンセン病問題にかかわり続けたいと思っています。ありがとうございました。

後 援/IDEAジャパン・ハンセン病首都圏市民の会


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