ニュースレター No.17 (2014年02月25日発行)
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第18回国際ハンセン病学会(ベルギー)に参加して

理事長 森元 美代治

私たち夫婦は1998年の第14回国際ハンセン病学会北京大会以来、ブラジル大会、南アフリカ大会、インド大会に毎回参加し、それぞれの大会で新しい出会いがあり、発見があり、多くを学ぶことができました。今回のベルギー大会にはこれまで以上に特別な思いもあり、何が何でも参加したいと思っていました。それは世界のハンセン病史上、偉人として語り継がれているダミアン神父がベルギー出身だからです。

ハワイ・モロカイ島の断崖絶壁の下に突き出た半島につくられたカラウパパというハンセン病患者の強制隔離収容所で、布教と患者救済のために献身された神父は、42歳のときハンセン病に罹患し、49歳で昇天されました。2009年、ローマバチカン市国より聖人に列せられました。カトリック信者である私にとってダミアン神父の生まれ故郷で神父の足跡を訪ね、その魂に少しでも触れることができるとしたら、これほどの喜びはないし、大きな恵みでもあるからです。

またベルギー大会に参加する前にノルウェーを訪問するのは、1873年にライ菌を発見したノルウェーのアルマウエル・ハンセン医師の博物館を見学する良い機会ともなるからです。さらに以前より行ってみたいと思っていたアウシュビッツも見学することにしました。ポーランドのクラクフ市には、ユダヤ人大虐殺で知られ、世界遺産にもなっているナチスドイツの強制収容所があります。

とはいえ、75歳の後期高齢者で体調も万全でない私が、ヨーロッパ3国の長旅に耐えられるかどうか不安はありましたが、幸いにも蘭由岐子先生(追手門大学教授)と坂田克彦先生(東日本大学准教授)が同伴することとな少し安心しました。

ところが、ベルギー大会の通訳がなかなか見つからず、諦めかけていたところ、出発1週間前に栗田路子さん(朝日新聞Web誌編集記者)を紹介され、快諾していただいたのです。栗田さんはいろいろな持病を抱えながら犠牲と奉仕を惜しまない敬虔なクリスチャンで活動家でした。お忙しいため数人の友人を通訳として紹介してくださり本当に助かりました。


▲ノルウェーのベルゲンにあるハンセン病博物館の内部。140年前に患者たちが住んでいた療舎 photo : 森元美恵子

9月8日早朝、ルフトハンザ航空で13時間を要してフランクフルトへ。7時間のトランジットの後、ノルウェー第2の都市ベルゲンに向かいました。前ハンセン病博物館館長のシギュー・サンドモさんが出迎えてくれてホテルに直行。

9日朝食後 、140年前に患者たちが住んでいた木造三階建ての寮舎を見学。三畳間に二人用の板ベッドがあり、三階に20室ほどコの字型に並んでいて、一階にも20室ほどあり、一階の板敷きの大広間は集会や娯楽用に使われていました。日本の十二畳半に 8人という雑居部屋とは違って、ある程度のプライバシーが保たれ 、全体に温かい家庭的雰囲気が漂っていました。隣接する教会は2013年4月に放火されましたが、屋根と廊下が焼けただけで大事には至らなかったようです。

午後にはノルウェーの大作曲家グリーク記念館 (シギューさんが新館長に)に招待され 、ピアノ名曲集のすばらしい生演奏を満喫。終了後 、そのピアニストと美味しいコーヒーをいただきながら談笑させてもらいました。3時ごろから山の中腹にポツンと一軒だけ建つシギュー家でくつろぎ、旅の疲れを癒しました。夜は蘭先生持参のお好み焼きと現地で調達したお米と海苔で美恵子が作ったおにぎりで、ささやかな日本式ディナータイムをシギュー家 4名、奥様のご両親、3名の友人を交えて 13名で楽しみました。皆さんお好み焼きは初めてだったようで大好評でした。


▲アルマウェル・ハンセンの銅像の前で。
森元美代治・美恵子夫妻と蘭由岐子さん(追手門大学教授)、坂田克彦さん(東日本大学准教授)

10日午前中にハンセン博物館を訪間、館長よりその歴史や存在意義をお聞きした後 、二人の学芸員より入所者一人ひとりの病歴や人となりを克明に記録した過去帳について説明がありました。死後 60年経過した人であれば誰でも自由に閲覧することができます。遺族がその過去帳を通して故人のことを知って感動して帰ったケースもあったそうです。わが国では過去帳どころか納骨堂の骨壺にでさえ本名が記されていない実態があります。

午後はハンセン医師が建立した二つの病院を見学しました。100年前の建物がほとんど原型のまま保存されており、第二病院は国立ベルゲン大学医学部研究室として使用されています。

11日午前中にベルゲン市内観光と土産物店を散策したあと、シギューさんのご両親のお宅に招かれ 、昼食は代表的なご当地グルメである新鮮なサーモン料理とお母様手作りのケーキやデザートなどご馳走になりました。お父様は経済学部教授で広い部屋や廊下には図書館のようにきちんと整理された本箱が並んでいました。お母様は病気で言語障害のある人々のリハビリ指導者でした。ベランダには鉢植えのゼラニュームやベコニアの赤やピンクの花々が咲き誇っていて、蘭先生と美恵子とお母様の花談義が盛り上がっていました。

ノルウェー最後の夜はシギュー家で一年前に裏庭で捕らえて冷凍してあったという野生の鹿肉の鍋料理をご馳走になりました。初めて味わう鹿肉でしたが、生姜やにんにくで長時間煮てあり、臭みもなく柔らかくあっさりしたものでした。食後にデザートをいただきながら蘭先生のピアノとアーカイブス(ハンセン博物館)学芸員マヤさんのギター伴奏で『上を向いて歩こう』(すきやきソング)などを歌って楽しいお別れ会をしました。

12日夕刻、ポーランドのクラクフヘ。坂田先生は仕事の都合でフランクフルトから帰国の途に着きました。蘭先生と私たち二人は映画「シンドラーのリスト」の現場近くのホテルで一泊。

13日11時ごろ、いよいよアウシュビッツヘ。半年前から予約していた日本人唯一の公設ガイド中谷剛さんに案内してもらいました。2、3階建ての鉄筋コンクリート造りの建物が何棟も整然と立ち並び、中には5、6階のものもあり、どの建物も世界中からの見学者でゴッタ返していました。1階から上階までの暗い廊下には手すりもなく、上り下りする人々は蟻の行列のようで、立錐の余地もなく、美恵子と私はヘッドホンで中谷さんの解説をききながら必死の思いでついていくのがやっとでした。600万のユダヤ人がガス室に連れて行かれる前に刈られた髪の毛だけが積まれている部屋や、大小色とりどりの靴が乱雑に積んである部屋。処刑場には見せしめのために首吊りされている男性たちの大写しの写真など、70年前に地球の一隅でこんな恐ろしいことが平然と行われていたという戦争の歴史は信じがたいほどで、まるで地獄絵を見る思いでした。

ナチスに抵抗する学者、神父、牧師などの有識者が北はノルウェー、南はスペイン、西はフランスやイタリア、東はロシアから連れてこられ殺されているのです。私が最も関心を抱いていたのはコルベ神父のことでした。餓死刑に処せられていた囚人の身代わりを申し出て殺された神父は、1930年ごろ、長崎と東京で宣教活動をしていました。全生園のカトリック教会図書室に写真が飾られていて以前より神父のことは知っていました。82年、その献身と英雄的犠牲の生涯によって聖人に列せられました。

中谷さんによると世界中のクリスチャンが巡礼地としてそこだけを訪れる人もいるということです。私は暗く狭い部屋で、他の二人と映っている眼鏡をかけた神父の写真を目の前にして背筋が凍りつくのを感じながら合掌しました。神父のご冥福をお祈りすることができて、ここに来てよかったと思った瞬間でした。

アウシユビッツに隣接する広大なビルケナウにはユダヤ人女性たちが強制労働させられた軍需工場だけが残っていて、私と美恵子は疲れきっていたので車で見学させてもらいました。

15日 、われわれ二人はフランクフルト経由でベルギーの首都ブリュッセルヘ。空港には中山博幸さん (前日本人学校事務長)と大松清一さんが出迎えてくれました。ブリュッセルは東京のような大都会ではありませんが、ユーロ(EU加盟国)の本部があり、ヨーロッパの政治・経済の中心地となっています。日本人も500人ほどいるとか。地震がないため 100年前に建てられたレンガ造りの高層ビルが美しい景観を保ち、ヨーロッパの代表的なキリスト国の一つです。英語圏、フランス語圏、オランダ語圏があり、通訳の栗田さんは日常的にそれらを使い分けているようです。その夜は広川和花さん(大阪大学准教授)が合流し、中山さんの案内で代表的なご当地グルメの美味しいムール貝を味わいながら談笑し、ブリュッセルでの最初の夜を満喫しました。

16日午前9時よりIDEA国際会議が私の開会宣言によって始まりました。コーディネーターのアンウエー・ローさんより本会の主旨説明があり、世界遺産問題についての各参加国の皆さんの意見交換が行われました。

国際ハンセン病学会には 82カ国から1,000人が参加。すべてのプレゼンテーションは3日間では消化できないため広いロビーに設置されたテレビモニターによる発表も多くありました。幸いに私は 19日14時からスピーチすることとなり、通訳は澤田久美子さん(尊父は全生園の元職員とかで驚きました)。私はIDEAジャパンの活動報告と日本の療養所の現状について話しました。

19日17時に専門家たちによる各分科会での発表はすべて終了し、19時より閉会式が行われ、2016年第19回北京大会での再会を約して散会しました。

20日に実施された IDEAメンバーだけによるダミアンツアーに参加。中山博幸さんと栗田路子さんが通訳として同行してくださいました。ダミアン神父の生地ルーベン市郊外トレメロにあるダミアン博物館には神父の生まれたベッドと大きなお墓が保管されていました。広い安置室の地下に眠る神父の本製の大きなお墓に触れながら黙祷をささげた時には、神父の温かい御手に抱かれているような感動と喜びで胸が熱くなるのを禁じえませんでした。

博物館では新しい発見があり、驚きでした。それは1886年 (明治19年)ごろ、ダミアン神父の主治医が日本人医師だったという事実です。その医師から神父に送られた薬箱が飾ってあったのです。こんな話はまったく聞いたことがなかったので本当に驚きました。 詳しくはP7の「ハンセン病に立ち向かった2人」湯池晃一郎さんの文章を読んで頂ければと思います。


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