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▲世界の仲間たちと。第1回国際ハンセン病女性会議。2002年6月。 セネカフォールズNY州、アメリカ。前列中央が柴田良平さん |
副理事長の柴田良平さんが1月24日、肺炎でお亡くなりになりました。謹んでお知らせいたします。
昨年末から入院中だった柴田さんを、お正月明けに病室を訪ね、以前、ニュースレターに柴田さんの書かれた菊池事件について、最新号に掲載したい旨、お訊ねすると、「ありがとう! ありがとう!」と繰り返して、笑顔で応えて握手してくださいました。ところがその後、病状が急変し、1月24日、肺炎でお亡くなりになりました。
柴田さんは、プロミンで治癒し、社会復帰したベティー・マーチンの『カービルの奇蹟』を読んで社会復帰を目指し、ご夫婦で実現しました。
2002年にセネカフォールズ(NY州、アメリカ)で開催された国際女性会議にすい子夫人と一緒に初参加し、以来IDEAの集会には積極的に参加されました。「IDEAの仲間と知り合えたことで、自分の後半生が豊かに変わった」と、いつも感謝しておられたことを思い出します。各国IDEAの友人たちから追悼のメッセージが届いています。皆さんとともに、心からご冥福をお祈りいたします。(村上・記)
■追悼文 <寄稿> S・ショウジ
良平さん
84年8ヶ月、精いっぱいの歩み、失望もあったでしょう。理不尽を感じた事もあったでしょう。生き甲斐を失いかけた事もあったでしょう。閉じ込められ、納骨堂まで用意された世界から脱出し、自ら手にした一社会人としての生活、生きている喜びをより強く感じた事もあったと思いました。
良平さんと出会ったのは、中期高齢者中の約10年前、ご夫妻が原告として闘ったハンセン病国賠訴訟が結審し、ぼつぼつ体のケアに入りかけた頃でした。
長野県小布施町の病院に通い続けた数年間、私もハンセン病後遺症手術のため入院しましたが、良平さんの奥さん、すい子さんの入院手術も再々々度と数年続き、その度に入院、面会、退院と往復500キロを車での日帰り日程で、中期から後期高齢の体に負担は大きかったはず。でも疲れを表した事はありません。おいしい食事処を探し、食べる楽しみも見つけた事もあります。
ハンセン病首都圏市民の会の会合は二人三脚。自宅に迎えに行き、テーブルは隣に着席する。発言は良平さん。会合が終わると自宅に送る。私たちは頭と足、二人で一人前だと思っていました。日常生活も話してくれました。近隣に住む知り合いの方々が、家事のサポートをしてくれたよと。
入院生活も一段落。夫婦2組4人で2年続けて伊豆半島へ。真鶴、熱海のホテルから海を見ながらの食事。海の幸、精進料理、幸せの時間を共有している事を実感しました。
良平さんは、兎眼からくる眼の炎症のため、診察や手術入院。東京本郷にある東大病院にも通い続けました。年齢からくる難聴も進み、診察室に夫婦2人で入る。私は待合室で待つ。朝出掛けの車中では元気なく、診察を終えた帰りの車中では晴れ晴れとして話を聞く事もあった。角膜移植手術数回、視力を失う心配もあったでしょう。明るく前向きな姿勢、いっしょに居る相手側を気づかう人でした。
自室にも私たち夫婦でお邪魔しました。富士山の見えるマンション最上階の暖かいお部屋。時にはパソコン教室風、食事会を兼ねた雑談会、部屋いっぱい賑やかに声が跳び回っていました。
私は良平さん夫婦は私たちの見本だからと、何度も言いました。退所者同士の結婚、後遺症ありの子どもはいない。年齢は一回り以上先輩であり、老後の生き方を将来の指針にと思っていたからです。身内との係わりに距離を置き、隣近所とも浅い付き合いです。
良平さんは外国へもたびたび出かけ、国内外とも交流の輪を広げ、日頃の活動も積極的、的確な判断、細やかな気配り、私とは正反対でしたが、理想の姿でした。出会いから10年、身近に濃い時間を持てた事に感謝です。
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