>>トップページへ戻る
追悼

ああ、大谷藤郎先生、安らかに!

2010年6月

らい予防法廃止の最大の功労者、大谷藤郎先生が昨年(2010年12月7日)、86歳の生涯を閉じられました。青山葬儀所で行なわれた告別式には、IDEAジャパンから私たち夫婦と八重樫理事夫妻が参列しました。国際医療福祉大学、全国の精神障害者家族会をはじめ、各界から著名な方々が多数参列され、厚生省をリタイヤー後も、医療・人権問題に貢献された大谷先生ならではの、稀なる盛大な告別式でした。

大谷先生の「病気や障害をもった人と共に生きる社会」の考え方は、人間の誇りのために闘っている世界のIDEAの理念と同じだと、IDEAジャパン設立当初から賛意を示され、パンフレットには有り難い推薦文を頂戴いたしました。

先生を語るには、恩師・小笠原登先生を抜きにしては考えられません。小笠原先生は特効薬プロミンの開発以前より、ハンセン病の隔離、断種、消毒不要論を主張し、1941年、日本らい学会で糺弾されてもその信念を曲げず、新しい患者を発見すると、予防法を無視して京都大学医学部付属病院特別皮膚科で治療を施していました。大谷先生は京大医学部の学生時代から小笠原先生に師事し、ハンセン病の専門医として働いておられました。

その後、大谷先生は厚生技官に転任され、療養所課長から、公衆衛生専門官の最高位、厚生省医務局長に昇任されました。当時、療養所の生活環境は劣悪で、医療、看護、介護、福祉などあらゆる面で他の施設に遅れていたため、全患協(全国ハンセン病患者協議会、現在の全療協)は運動の中心を、らい予防法改正から処遇改善中心の経済闘争に切り替え、予防法問題をタブー視する状況にありました。

しかし、日本経済の発展に相まって、療養所の処遇改善も整いつつあり、全患協は積年の課題であった「らい予防法」問題を検討し始めました。一方、厚生省は大谷先生を座長として療養所の将来構想も含め協議しましたが、その回答が得られないまま、1993年に大谷先生は個人的見解として、全患協に対し、「らい予防法は人権上間違っているから、全廃すべし」と提言されました。

この提言はどこの療養所をも震撼させ、入所者の8〜9割が大反対でした。「法がなくなれば、療養所の存続が危うい」「社会復帰できない人びとは路頭に迷う」等々の反対意見が続出して、全患協は分裂の危機にさらされながら、紆余曲折を経て、組織結成以来45年を費やして、1996年、ようやくらい予防法が廃止されました。

その2年後、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟が提起され、日本の裁判史上例を見ない早さで、第一審の熊本地裁の原告側全面勝訴判決が確定しました。元厚生省医務局長として被告国側の立場にあった大谷先生が、涙を浮かべながら法廷で、「らい予防法は間違いだった」と全面的に国の非を認め、原告側に立った証言をされたことが、勝訴判決を導き出したとも言えます。

最後に大谷先生のご功績として忘れてはならないのが、高松宮記念ハンセン病資料館(現・国立ハンセン病資料館)の設立です。100年以上にわたるハンセン病差別の実態や、われわれ当事者が受けてきた苦難の歴史を公開し、史実を世に残すために、ハンセン病資料館の設立にご尽力されました。多磨全生園入所者のボランティアが資料収集、展示、資金集め等に奔走し、財団法人藤楓協会の40周年記念事業として開館しました。現在は国立ハンセン病資料館とリニューアルされ、次世代へハンセン病の負の歴史を伝えています。

小笠原登先生と大谷藤郎先生が、近代ハンセン病史上に登場しなければ、今日のような状況には至らなかったのではないかと思うと、いくら感謝しても感謝のしようがありません。

大谷先生、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

理事長 森元 美代治